車中泊の旅 長崎観光 DAY64

時間制限のない旅

やっと長崎市の観光始まります。大寒波が終わり、市内の雪も消えました。寒さも少し和らいだようで、電車に乗って移動します。

電車に乗って市内観光

長崎原爆資料館と追悼平和祈念館

被爆の惨状をはじめ、原爆が投下されるに至った経過、および核兵器開発の歴史、平和希求などストーリー性のある展示を行っています。

長崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945(昭和20年)8月9日(木曜日)に、アメリカ合衆国が長崎に対して原子爆弾「ファットマン(以下原爆と記す)を投下し、午前11時02分に炸裂しました。原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊したそうです。この資料館ではその状況などが写真や実物などで紹介され、どんなに悲惨な状況だったのかよくわかりました。また実際被災された方の手記などを読み、心が苦しくなりました。戦争は絶対起こしてはいけません。原爆など絶対に投下してはいけませんん。
今でも世界のどこかで戦争をしています。一日でも早く戦争のない世界が訪れるように折り紙を折ってきました。

ここは非常に静かで厳かな感じでした。水がずっと流れているのは、水を求めて亡くなった方たちの鎮魂のためと聞いたことがあります。本当に静かな空間でした。

平和公園

平和を祈る像が沢山立っています。

浦上天主堂の原爆の遺構など哀しい歴史がありました。

猫ものどが渇いていたのか、たくさん飲んでいました。

戦争は嫌ですね。悲しすぎます。どうかお亡くなりになった方たちがのどの渇きを癒され、心穏やかでいられますように。

戦国時代の末頃よりキリシタンの村だった浦上は、1614年(慶長19)の禁教令によって259年に及ぶ弾圧とキリシタン潜伏の時代に入ります。幕末、長崎の外国人居留地にフランス人のための大浦天主堂が完成。珍しい西洋建築を見に集まった人々に紛れて、浦上の農民数名がそっと神父に近寄り、信仰を告白した。これが「信徒発見」です。しかしやがて彼らの存在は役人の知るところとなり、浦上の全村民3394名が流罪となって過酷な拷問を受けました。迫害は明治になっても続きましたが、欧米からの批判が外交問題となり、1873年(明治6)に禁教令は解かれ、生き残った信徒は浦上へ戻りました。浦上天主堂は彼らの長きにわたる思いの込められた教会なのです。浦上天主堂は長崎原爆の爆心地から約500mの距離にあり、そのほとんどが無残に崩れてしまいました。聖堂の内外にいた司祭や信徒は全員死亡。地域のカトリック信者も約8500人が犠牲になったといわれています。原爆で被災した建物は原爆資料館に展示されています。

本日の会計

品 名代 金(円)雑 記
ガソリン代6294
高速代640
駐車場1200
食品1478
外食3480ココウオークで食事
たばこ6000
お風呂1600
入場料400
合計21092

本日のニャンズ

寝ているお姉ちゃんココにちょっかいをかけて怒られてるキキです。