緊急事態発生
ココの結石再発 動物病院へ
昨夜はトイレが忙しくてほとんど猫砂に座ってました。
診察の結果は、「たぶん結石でしょう。療法食にしましょう」とのことでしたが、ネットでしか注文できず、一旦はあるもので対応し、兵庫の息子のところに届くように手配しました。北海道に帰るときに取りに行くことにします。頑張れココ!!
JJは肘に水がたまり岡山の整形外科に受診。水を抜いてもらいました。
長島愛生園
1930年(昭和5年)に日本初の国立療養所として発足。国が設置した最初の療養所として長島が選ばれた理由は、離島という環境が隔離にもっとも適していると考えられていたためである。定住する人がほとんどおらず、島の大部分が国有地だったという環境も国立療養所開設をあと押しする一因となった。1946年(昭和21年)に現在の「国立療養所長島愛生園」へ名称変更し、現在に至っている。
邑久長嶋大橋:島と対岸を結ぶ唯一の橋。昭和63年隔離が必要のない証として架けられました。それまでは渡し舟が出されていました。
長島愛生園の史跡
もかけ小中学校第三分校:1939年4月に開校し、先生は入所者の方でした。1947年分校になってから本校より教師が派遣されてきました。小学校は1959年、中学校は1962年に閉校となりました。最も多いときは71名が在籍し閉校してからは畳工場として使用されていました。
歴史館(旧事務本館):1930(昭和5)年、管理棟として竣工し園の運営に関する業務を1998(平成8)年まで行っていました。この場所はかつての職員地帯に位置しており、入所者が近づくことは厳しく制限されていました。
収容所(回春寮):入所するとまずこの建物に収容され、各種の検査や入所手続きが行われました。現金などの禁止物品の取り上げ、消毒風呂への入浴、持ち物の消毒などもここで行われました。
監房:秩序維持を目的にしていましたが、実際には逃走した者を多く収監しました。戦後も使用され続け1953年「らい予防法」の改正により廃止になりました。
目白寮跡:ここには歌人「明石海人」が暮らしていた目白寮がありました。海人は視力を失った後、この場所で短歌、俳句、散文に才能を発揮しました。
その他にも史跡がありましたが、ここまでで帰ってきました。ハンセン氏病の偏見や差別、国の政策の間違いなど裁判などで明らかになっていますが、歴史を知ることで考えさせられることが多くありました。小さな子供が無らい県という名の政策の下に親元から離され生活することは親も子もどれだけ辛かっただろうと思います。世間の偏見があり親兄弟に迷惑がかかると本名を隠して亡くなった方も多くいたと教えて頂きました。偏見や差別のない国にしていきたいですね。
本日の会計
食品代 1250円
JJ 病院代 1180円
ココ病院代 4627円
計 7057円
なんとココのほうが病院代すごく高いですね。
夕方にはココのトイレ通いも少し落ち着きました。良かったです。
今日の車中泊は昨日と同じ一本松展望園です。
お世話になってます。
ヤーリー梨 初めて食べました。上品な甘みと
香りのする梨でした。美味しかったです。